現在地:新竹縣新豊郷中崙村波羅汶(2011年7月12日)
大湖口公學校
民国前5年(1907年) 明治40年5月5日
(公報未確認)
總督府文書には「大湖口公學校開校認可(新竹廳)」として新竹廰からの報告が有る。
『明治40年臺灣總督府公文類纂追加15年保存 第七門 文書番号28』
また、「新竹廳告示第六號大湖口公學校外一校開校ノ件」の文書もある。
『明治40年臺灣總督府公文類纂第四八巻永久年保存 第五門 文書番号31』
中崙公學校
民国7年(1918年)大正7年3月31日
府報第1536號 大正7年4月13日告示第55號
湖口公學校中崙分離教室
民国10年(1921年)大正10年4月24日承認
新竹州報第89號 大正10年5月26日 彙報 學事
湖口公學校中崙分教場
民国12年(1923年) 大正12年4月1日
新竹州報第290號 大正12年5月11日告示第80號
<廃校>
(公報未確認)
公學校跡地の碑
<解説>
中崙公學校の所在につては、現在記念碑が建てられてるため、場所の確認はできる。しかしながら、創校から廃校に至る過程については、不透明な部分が多い。
大湖口公學校跡
大湖口公學校之跡
中崙公學校は湖口地区についてみると中崙、湖口、新湖口の三つの学校の創校と移転等絡み合っている。これは、学校名に所在の地名を冠するという原則があるため、校地が変更になると学校名も変更になることからその手続きの結果、複雑になる。
大湖口公學校から大正7年3月31日に中崙公學校に変更。これは移転に伴う変更と思われる。従って、同日、大湖口公學校は中崙公學校大湖口分校となって学校が維持されている。
大正10年4月24日に中崙公學校大湖口分校は湖口公學校となる。
同日、中崙公學校は湖口公學校中崙分離教室となる。
大正12年4月1日には湖口公學校中崙分教場へ昇格する。
湖口公學校は下北勢分教場を設立し昭和7年3月30日に新湖口公學校となる。
分校となった湖口公學校中崙分教場がいつ廃止になったかは未調査である。大湖口公學校之跡の碑文からは下北勢分教場の設立が移転設立となっていることから、移転と同時に廃校となった可能性が高い。しかしながら碑文の実地調査はまだであるため、今後、調査を行いたいと思う。
國民學校への移行にとなう名称変更は、湖口公學校が湖口南國民學校に、新湖口公學校は湖口北國民學校として変更された。
以上のことから考察すると、湖口近辺は常に2校体制が維持されていることである。これは、財政的なことや教員の維持等が絡んでいるものと思われる。これらのことについては今後の課題としたい。
2011年7月14日木曜日
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