2010年4月10日土曜日

臺中市西屯區永安國民小學(西屯公學校水堀頭分教室・西屯公學校水堀頭分教場・西屯國民學校水堀頭分教場・)

現在地:臺中市西屯區(2010年4月10日撮影)

西屯公學校水堀頭分教室
民国6年(1917年)大正6年4月
(公報未確認)
<自校史による>

西屯公學校水堀頭分教場
(公報未確認)

西屯國民學校水堀頭分教場
(公報未確認)

西屯國民學校(課程第一號表による)
(公報未確認)

<解説>
 西屯公學校水堀頭分教室の設立については、公報での確認ができていない。自校史による大正6年の設立については府報での分校認可告示は確認されなかった。したがって開設は分離教室の設置と推測される。
 昭和14年の職員録では分教場として職員が記載されているため、この時点では学校が存続していたことは確認できると思う。しかしいつ分教場になったのかは確認できなかった。
 また、昭和19年1月1日現在の職員録にては、西屯國民學校(大屯郡西屯庄水堀頭三六三)の記載がある。これは、職員録の配列、教師の氏名から、課程第一號表によるものと考えられる。
 昭和16年4月1日の臺中州報の告示は校名変更の告示はなく、課程表の指定校の記載があるのみで、本校のみの記載となっている。そのため、分校の記載が確認できないため、國民學校に変更されたときの水堀頭分教場の扱いは確認できていない。また昭和17年4月1日、昭和18年4月1日の臺中州報でも、水堀頭分教場の國民學校の廃止設立等の告示が確認されなかったことから、この期間の中間での廃止設立があったものと思われる。
 ただ、臺中州報の学校関係の告示は他州に比べると煩雑で、全てを告示で行っていないようでもあり、内部処理的な面もあったような感じである。

 以上のことから、西屯國民學校水堀頭分教場はあったようであるが、最も可能性として考えられることは、昭和18年に課程第二號表による課程を廃止し、西屯國民學校(課程第二號表による)と統合され、生徒は西屯に通うことになったものと考えられる。義務化の移行に伴って、校舎は西屯國民學校水堀頭分教場のを使用し課程第一號表による学校が新設されたものと思われる。 

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